第16回「映像」平和学習会 参加者感想の追補です(2019.7.8.)


  5月度「村人は満州に送られた~国策71年目の真実」ドキュメント(感想)
〇はじめて参加しました。あまりにも重い話でびっくり。中西礼さんのテレビインタビューを思い出した。それは満州引揚者である中西礼さんが、偶然乗れた帰国のための列車で無理やり乗ろうとする人をこれ以上乗せまいと、軍人が手を切ったりする。中西さん達も手伝わざるを得ない。冷たい満州の大地に列車から落とされ、置いてきぼりにされるということは死を意味するのに。「移民」とは開拓する人のことだと思っていたら、ビデオを見て地元民から取り上げた土地だったと知った。恨みを買うはずだ。戦争は人間には出来ない。忘れてはならない(T)
〇政治に利用される仕組みが現在とまったく同じ。政治家がやりたい放題やって、その結果国民にしわ寄せがくる。ただ、今国民が守られているのは憲法のお陰だ。(I)
 

以上のコメントは、全日本年金者組合香芝支部ニュース第219号(2019年6月号)の囲い込み記事からそのまま採録しました。

 

第16回「映像」平和学習会短信  5月11日(香芝市) 主催 平和のための香芝戦争展
  NHKスペシャル 2016.8.14
「村人たちは満州に送られた」 ~国策71年目の真実~
                            ときめき屋正平・記


  全日本年金者組合 香芝支部ニュース 第216号 (2019年5月)から記事採録
 あらすじ:

 27万人の人達は軍への食糧供給や植民地の治安安定の為に国策によって満州に送られた。ソ連の侵攻で虐殺されたり、中国残留孤児となり、8万人が被害を受けた。どうやって農村から送られることになったのか、資料の発見で実態が明らかになってきた。 

    
 
   昭和19年8月満州へ移った人たちの集合写真が映し出される。旧満州で軍に召集された男性たちである。国策として、満州国の支配と食糧増産のための27万人が開拓民として送られた。昭和18年以降も6万人が送られた。
 上の写真の男たちが召集されたため、残った女・子どもたちは集団自決した。8万人以上の開拓民が犠牲になった。その手伝いとして年若い男子が、首をしめるなど凄惨なありさまを、ただひとり生き残った老人が語っている。この人は戦後瀕死の状態で中国人に救われた。
 国策として本土の村に、満蒙開拓民を出すように、国は強制割り当てを県段階から町村段階に提示した。割り当て達成町村には補助金が出た。それで道路工事など町村で滞る事業に支出できた。           当時長野県豊丘村は2900人が在住。昭和19年8月、95人が満州へ渡った。                  当時35歳の村長は責任をとって、昭和21年「開拓民に申し訳ない」として、自宅で自死。
 昭和11年に国は、5年で10万戸渡満させ、最終的に500万人を送りだすために、関東軍と拓務省が実施する。と、閣議決定。五族協和。王道楽土の建設であるとした。昭和15年には5万人を越えた。

 昭和16年太平洋戦争に突入。軍は東南アジアから太平洋に拡大展開。                        

 戦場と軍需工場に人員をとられたため、開戦後開拓民の送り出しは3万5千人となった。             このため拓務省と農林省は昭和17年満州開拓第2期の五か年計画をたてた。県が町村に動員数を決めた。拓務省はなぜ満州へ開拓民を送り続けたのか。                                     農林省は貧農政策として、集団による分村・移民をして食糧増産を画した。
 関東軍は南方へ転戦。農林省は、北方強化のため、集団農村の建設、満州開拓協力のため昭和18年4月に農林省→県→村長→村民へ伝達し、分村開拓民を送り出した。昭和18年10月出陣学徒壮行会。10月21日豊丘村の事業として開拓民送出を議決した
 昭和20年5月新京より南を防衛ラインとして設定するものの、開拓民には知らされていなかった。
戦後拓務省は解体のため、開拓民の安否確認はできなかった。                           国策として「戦争の損害は国民すべてが受忍しなければならない」とした。                      主務役所が解体されてしまったこともあるが、かかわった役人の責任感の欠如もあるといえるのだが、日本軍も拓務省も解散してしまい、終戦直後の生き残った開拓民はほったらかしにされ、送り出した農村には状況は伝えられなかった。

感想・意見など。19人出席。
〇 個人としては、自分しか見えていない。
〇 国の政策を実行する役人の無責任は許せない。
〇 国策によって死に追いやった。
〇 軍人たちは開拓民を救わなかった。このことは、別の会で聞いたばかりだった。
〇 頭が混乱してくる。
〇 動き出したら止まらない。閉まらない。
〇 私も開拓民と同世代であるけど、満州に渡ることはなかった。こういうことが、あったと。        けれどわたしは、空襲で、大阪の築港で焼け出されてトラックで父の里の能登半島、石川へ    いったが、農地解放で土地をとられてしまった。
〇 満州に100万人残されたが、吉田茂がマッカーサーに直談判したがだめだった。
   悲惨な事例が起こるのは、戦争のせいである。今日のニュースで、チュニジアの難民船が     沈んだ。
〇 意味がわからん。新天地を求めてみんな行ったのに・・・。
〇 役所が解体されしまった。開拓民の所在、どうしているのか、だれにもわからない。          村人の伝聞などで、自決した、死亡したなど、すこしづつ判ってきた。                  軍隊も解散してしまった。引継ぎもなく、責任もとらない、わからなくしてしまった。
〇 政治家に、弱いものは利用された。今も一緒。                                 いま、憲法で守られているはずだが、しわ寄せは庶民にくる。
〇 終戦の年に生まれた。この番組は(既に)見ていた。政治家も役人もええことだけ言う。
   戦争さしたんわ誰やと思う。
〇 戦争は始まったら止められない。戦争とはそういうもんや。
〇 シベリアで飢え死にした人もある。補償もない。最後に被害をこうむるのは、その人たち。
〇 開拓民にロシア軍が攻めてきた。婦女子が殺された。生き残った開拓民を中国人が助けてくれ   た。墓を作ってくれた人もいた。と、紫金草合唱団で訪問した時に聞いた。
〇 別所の住人が開拓団員として行った。国のために行ったが帰れない人もいた。