1月13日(日) テレビ大阪 「池上彰の世界を歩く」

 新聞の番組案内に「プラハの春」を見つけ録画。

   今回は、東京オリンピックで金メダルを獲得し、日本国民にも名花と称された女子体操選手のベラ・チャスラフスカなどを紹介しながら番組を進めていた。

   2次世界大戦まえ、共和国として独立していたチェコスロバキアは、大戦でナチス軍に支配されたが、ドイツの敗戦で独立を回復―ソ連の衛星国として社会主義国となった。

 しかし、それまで世界有数の工業国として栄えていた国がソ連の支配下に変わり計画経済による停滞、言論の自由もなく監視・密告が横行、国民の思いとかけ離れた社会へ変貌していった。

  そんな中で、19681月「報道・言論の自由、複数政党制」などを掲げたアレクサンドル・ドプチェクという46歳のニューリ-ダー(第一書記)が誕生、新しい社会主義の民主化運動が開始された。これまで制約されていた西側への旅行も自由になり、チェコに留学していたバイオリンニストの黒沼ゆり子女史は、プラハ音楽祭で演奏楽曲が自由になったことを例に、新しい社会への変化を喜びながら語っていた。

   自由への謳歌も束の間、19688月、突然ワルシャワ条約機構の軍隊がチェコへの侵略を開始。数千の戦車と20万の兵隊を擁したソ連などの軍隊が平和な市街を破壊した。   

  チェコの国民も大国への抵抗精神を発揮。「2千語宣言」という署名運動を起こし、その中にチャスラフスカやマラソン選手の人間機関車―ザトペック氏らも名を連ねた。ラジオによる大国への反体制活動も開始され、「人間の顔をした社会主義を―」と戦車に抗した崇高な言葉の抵抗は民主主義運動の象徴の一つとして記憶された。

  しかし「プラハの春」はわずか半年ほどで終わりを告げる。ドプチェク第一書記は、地方の営林署に左遷され、チャスラフスカは東京、オーストラリアオリンピックで2度の金メダルを獲得したにもかかわらず、「2千語宣言」の署名撤回を拒否したということで清掃婦という不遇の生活を強いられたという。

 その後21年という歳月を経て1989年、あの「ベルリンの壁の崩壊」とともにチェコでも反政府デモが開始され、ビロードのように柔らかいスムースな―ビロード革命によって体制変革を成し遂げた。バーツラフ・ハベルという民主的な大統領の誕生とともに、ドプチェク元第一書記は要職に復帰。チャスラフスカも大統領顧問に就任し、東日本大震災時には慰問に来日、翌年には被災地の子供をチェコに招待するなど、親日家の彼女の活動を紹介しながら番組を締め括っていた。

 腹立たしい世事の続く今日、民主主義の勝利での終わりに、胸を撫でおろした。

 

<追記> 書棚の中で記憶の薄れた本が大半を占めているが、「プラハの春」もその一つ。フィクション作品ではあるが、20年ほど前にチェコスロバキア日本大使館に勤務していた春江一也氏が史実を素材にして出版したもの。その主人公も女性で大学教授であるが反体制活動家として活躍、ドキュメントタッチで描かれている―再読の機になるかも?

 

115日 アーチャン)