2021. 9.11  竹中美根子さん(大阪)

◎8月28日(土) 放送  ETV特集 「玉砕」の島を生きて 〜テニアン島 日本人移民の記録〜」
                          
 太平洋に並んで浮かぶサイパン島とテニアン島はマリアンブルーと呼ばれている南の楽園です。

太平洋戦争中、ここにアメリカ軍が上陸。日本軍は全滅し日本人の住民も次々と命を落としました。

「地獄と言う言葉を聞いた事があるが、本当に地獄ってこんなものかなぁと思った」

「苦しい 痛いよ~ 殺してくれと子供が叫ぶから、下の方から殺していった」

首のところへダイナマイトを置いてそれで火をつけた 僕は殺人者になるかなぁ」と…追いつめられ親しい者同士から自決をはか

った痛ましい体験。長い歳月を経て語られた生と死の記録でした。

 テニアン島で数多くおきた集団自決。

隠れている洞窟の中に日本の兵隊が入って来て「今そこまで敵が来ている。もう日本は駄目だよ。あんた達も生きていられない。

ここで一緒に死ななきゃ駄目だ」「小さい子供達は邪魔になるから先に始末しなさい」と命令されました。

 小さい子供を自分の手で始末したお母さん達は戦争の悲惨さを思い出すのも辛く、戦争について話してほしいとお願いしても語りたくないと断り続けました。お骨もジャングルの中に置いたままでもう収容する事はできません。

 もう二度と戦争はあってはなりません。

お国の為と言われながら死んでいった人達 死んで何がお国の為になるのでしょうか?

命の重みを感じさせる番組でした。

             

             

                 

2021. 9. 4  福井いく代さん(大阪)

◎8月13日(金)放送  NHK終戦ドラマ「しかたなかったと言うてはいかんのです」

                     

 これは戦争末期(1945年)にアメリカの捕虜の生きたままの生体実験に関わった医師のドラマです。

私はドラマの最初の実験場面を1回目はじっと見る事ができませんでした。

でもそれはだめだと思い、ビデオに撮っていたものをもう一度しっかり最初から見てみました。何とむごい事をと思いました。

戦争中だからみんな仕方のない事、「お国の為」「天皇陛下の為」と、上からの命令で行われました。

反対すれば非国民として扱われる。そして終戦になれば今度は戦争犯罪者として扱われる。

 この医師は、生きた人間が殺された、しかたがなかった事にはできない、自分はなぜ止められなかったのか、何も出来なかったのかと・・・ドラマはこの医師の苦悩を巣鴨の刑務所の中でうまく演出していると思いました。

最初は絞首刑判決が出ていたが、結局は妻の努力により10年の懲役になります。

これに対し、捕虜を生体実験に連れてきた軍人は絞首刑にされます。

この軍人は敵の捕虜なのだから実験にしても良いと思ったのだろう。

 戦争は人が人でなくなってしまう。

この医師は、いくら戦争中と言っても医者は命を救うもの、してはならない事はしてはいけない。

「しかたなかったというてはいかんのです」と。

天皇陛下の為と戦争をしてきた国民に対して、戦争犯罪者として沢山の軍人などが極刑にされたのに、最高責任者である天皇陛下

はなぜ何の責任にも問われなかったのか。

この辺もドラマに少しでも入れられたらもっと良いものになったのではないかと思いました。

           

                

                      

2021. 9. 4  松井成夫さん(大阪)

◎8月13日(金)放送  NHK総合テレビ 終戦ドラマ「しかたなかったと言うてはいかんのです」

 

 終戦間近の1945年5月に九州帝国大学で実際に起きた米兵捕虜を生体解剖するという痛ましい事件を題材にしたドラマである。

軍の命令に従った西部帝国大学医学部石田教授は、「人体実験は、お国に役立つ成果になる。無差別爆撃を行ったB29の飛行士だ。どうせ処刑される。」と、鳥居太一助教授に協力を強要する。

太一は、教授に実験を止めるよう詰め寄るが、「軍に逆らえばどうなるか。手伝え。」と恫喝される。

以後、太一は意に反したことを行ったことを悔やみ続ける。

 終戦、人体実験を行った医師たちは戦犯となって巣鴨プリズンに収監される。そして軍事裁判が始まった。

横浜地方裁判所第1号法廷で、何と太一が首謀者となって死刑判決が下された。 

 この判決は間違っている。夫を救うために妻・房子が立ち上がった。間違った判決を正すため真実を追い求めて奔走する。

房子は軍事裁判で弁護側の通訳の女性・三浦に力を借り、サマーズ弁護士に会って、太一の証拠・証言が取り上げられなかったのは何故かと問い質した。4回の手術で2回の関わりが、全て参加したことにされたことなど、嘘の証言をするように圧力を加えた事実を突きつけた。サマーズ弁護士は首謀者である石田教授が責任を取って自殺したことで、全員の罪を軽くするために次の地位にある助教授の太一を首謀者にする必要があったことを認めた。

 房子は太一に減刑のための嘆願書を書くよう勧めるが、拒否される。

太一は、人体実験を止められず、何もできなかったことを悔やみ続けるが、妻や子どもへの思いもあり、葛藤する。

妻が二人の子ども(姉・和枝、弟・義正)を連れての面会で、別れ際に娘の「おとうさん!」と絶叫する姿に、太一は助命嘆願書提出を決意する。

その後、太一は首謀者でなかったことが認められて大幅に減刑されて出所する。

 開業医になった太一を訪れた記者が、事件について「戦争だったからしかたなかったのでは...」との問いに、太一は毅然と応じた。「人間の命に対して、決してしかたなかったと言うてはいかんのです。」

                                        

 太一の妻夫木聡さん、房子の蒼井優さんは、人物像をリアルに表現した迫真の演技だった。太一は「自分は首謀者ではない。死刑になるようなことはしていない。」と言う一方で「人体実験を止めることができなかった。罪がある。」と苦悩する。

太一を救う房子の行動は圧巻だ。「息子は助からん。」諦めて自分と子どもたちのことを考えて生きるように諭す義父に対して、「諦めることはできんです。間違った裁判で夫が殺されるんを認めるわけにはいかんとです。」と気丈に応える。

間違いを正すためには、何が必要か。本当の事、真実を明らかにする。裁判で太一が嘘の供述をさせられたことをサマーズ弁護士が認めたシーンから伝わってきた。

                 

 何故、太一・房子夫妻がこんなに苦しまなければならなかったのか。その元凶は戦争だ。戦争が無ければ、このような事件は起きなかっただろう。日本国憲法前文に「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し」と記されている。戦争は政府、権力が起こしたのである。そして、ドラマは日本の加害責任も問うているのではないか。戦前は、国民に主権がない憲法、治安維持法による凄まじい言論弾圧でモノが言えず。戦後の日本国憲法で言論は保障され、ドラマの惨禍を再度起こさないために、不穏な動き、おかしいと感じることがあれば、声を上げることができる。そして、権力に憲法を守らせるようにジャーナリズム・言論機関が本気で監視することを求めていきたい。

              

                  

                     

 

2021. 9. 3  竹中美根子さん(大阪)

◎8月23日(月) 放送  BS1スペシャル「戦場に消えた住民〜沖縄戦  知られざる従軍記録」 

       
 母親や少年少女まで戦場に送られ犠牲になった沖縄戦・・・

家族に何があったのか、遺族が長いあいだ問い続けてきた詳細が未公開資料から明らかになりました。

 76年前「ここは地獄だ」と言われた戦場・・・

森の中に足を踏み入れると、戦争の生々しい足跡が今も至る所に残っています。

太平洋戦争の末期1945年、日米は3カ月にわたり激しい地上戦を繰り広げました。

犠牲者は20万人以上。国内の地上戦では最も多くの人が命を落としました。

戦場には軍の為に働くよう強制された女性達や10代中ばの少年少女達がいました。

 戦後生存者に対して琉球政府が行った聞き取り調査の記録・・・

1000ページ以上に及ぶその証言から、住民達が軍に組み込まれた経緯から何をさせられ何故死に至ったのか、

これまで知られていなかった詳細が明らかになりました。

 女子青年団に対し入隊の命令を出しました。そして疎開を禁じられ、命令に背く者は鉄砲で撃つと脅され、

その日のうち全員が入隊しました。

「犬死はさせない。死んだら我々と一緒に靖国神社に祀られるのだから」と話した軍は、各地域にあった婦人会や

青年団などの組織を利用して女性や少年少女まで戦場に立たされていた例は世界でも余りありません。

 10代の少女達も根こそぎ動員され、兵士がやるべき任務につかされていた実態が明らかになりました。

看護要員として連れ出された少女達が送り込まれたのは、後方の病院ではなく最前線でした。

自爆攻撃用の爆弾の運搬までさせられ、身を守る為に雨に濡れた地面にはいつくばらねばなりませんでした。

 住民を総動員してアメリカ軍を迎え討つ準備を進めていました。

四方を見渡せる村でひときわ高い161.8高地陣地は、村の人達にとっては集落発祥の地として大切な祈りの場でした。

軍は陣地を作るよう命じて、村の人達は自らの手で聖地に手を加える事になりました。

こうして村は丸ごと戦争に飲み込まれていきました

 1945年6月23日、沖縄戦を指揮していた牛島司令官が自決しました。

しかし「最後まで戦い続けろ」と言い残したため、戦闘は続き、住民の犠牲は増え続けました。

 日米両軍による沖縄戦の降伏調印が行われたのは2カ月以上後の9月7日でした。

沖縄戦終焉の地に作られた「平和祈念公園」に犠牲者20万人以上の名前が刻まれています。

遺骨・遺品も見つかっていない人達にとっては数少ない慰霊の場です。

                            

 もう二度と戦争はあってはならないと考えさせられる番組でした。

番組の中で”素朴な挿絵”が出てきますが、重くるしい番組のなかでホッとする場面でした。

              

             

 

                                               

2021. 9. 2  服部邦彦さん(大阪)
◎8月14日(土) 放送  ETV特集「ひまわりの子どもたち ~長崎・戦争孤児の記憶~」(59分)
                                      
【番組内容】
 原爆投下後の長崎で、GHQの指示を背景に設立された戦争孤児施設「向陽寮」。太陽に向かうひまわりから「向陽寮」と名付けられた。原爆で親を失い、住む場所も食べ物もない過酷な状況にあった100人以上の戦争孤児たちが収容された。
初代寮長は女手一つで2人の子供を育てていた当時40歳の餅田千代さん。孤児たちは寮で千代を「お母さん」と慕った。
千代は、盗みや乱暴が染みついた孤児たちと風呂に入ったり、自立のための教育に奔走する。
千代が残した育成記録と、今年60年ぶりに開いた寮生達の同窓会の様子・証言をもとに、戦争孤児たちの知られざる戦後を見つめた番組。                                     
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 以下は、寮生活の一端と、餅田千代さんの考え方や子供達に接する姿勢・愛情、子供達の〝お母さん“(餅田千代さん)への慕いと感謝の気持ちなどの証言の一部である。
 千代さんの手記には、子供達と向き合う覚悟が綴られていた。
戦争のため家も親も亡くした可哀想な子どもたちだから」「母親の愛情をもってこの仕事をやりぬこう」との決心。 
寮の子供達の歩んだ道と〝お母さん“への「慕い」と感謝の言葉
原爆で親も家も失った兄弟は、大分の親せきに養子に出されていたが、過酷な労働や学校にもろくに行けない生活に耐えられず、養子先を飛び出し長崎へ戻り、長崎駅で保護されて向陽寮に収容された。「寮のお母さんが持ってきてくれた食パンを食べた時のおいしかったこと、いまだに忘れられない」「向陽寮がなかったら恐らく餓死していただろう」。
「向陽寮のお母さんの夢を見るんですよ。怒られた夢とか、お風呂に入った時、お母さんも一緒に入った。ワイワイガヤガヤ楽しかった」と語る。
お母さんはお乳が一つなかった。「病気して右乳房部を切除したの、子供達はかわるがわる私の全くなくなった右乳房を触っていました」。毎日の生活の営みによって、一歩でも子供に近づきたいとの思いから、あえてこんな手段にも出たのだ。
「物心ついた時には寮にいました。先輩とかいい人が多く、自分が小さかったから可愛がってもらった」
                      
 同窓会での会話。
「俺たちが一般の学校に行くことは、周囲のPTAが反対した。それでお母さんが夜な夜なPTAを説得に行った」。
寮生を学校に受け入れてもらおうと、千代は地域の婦人会に乗り込む。婦人会長は「私達は、子供達に何一つ与えたこともなく追っ払ってばかりいました。これからは自分達の子どもと思って育て行きましょう」と。
寮生は「ひまわり会」という自治会を作り自分達で生活のルールを決めるまでになった。
「寮に入る前は何も言えなかったが、寮に入って変わっていった。自治会という会で私も話ができるようになった。向陽寮は非常に私には人生の基礎となった生活だったと思う」。
 子供達が成長し、社会へと出発する就職時代がやってきた。
「やっぱり寂しい。仲間と別れるんですからね。休みの時は行くところがなく寮に行ってお母さんに『こういうことをしてきました』と挨拶すると喜んでくれましたね」「やっぱりこれが家族なんだなとよく思ってました」
「刑務所に行ったのは結構いる。卒業生で自殺した人は何人もいるね。
やっぱり向陽寮ということを自分から消し去りたいという感じが強かった。孤児院の出身者だということで、自分の過去育ってきたところを表に出さないということで生活してきたこともある。」
「社会に出ると差別があった。施設の子は手癖が悪い、乱暴だというイメージが。
会社の中で金品が無くなると、『あいつじゃないか』と。結局、そういうことで疑われるのが嫌だから、過去を隠して就労したり、結婚する時も相手に伝えないことがあったかもしれない。」
「仕事が合わんとか、怒られたとか、そんな理由で辞めて帰ってくる。帰るところは向陽寮しかない。それでまたお母さんが仕事を世話」。
                           
 「帰ってきた子供達の面倒を見てるじゃないか」という理由で昭和38年左遷され、開設から15年、餅田千代 向陽寮を去る
「腹が立ってきます、お母さんがやったことの成果は我々子供達だ。向陽寮がどうってことじゃない。そこから巣立っていった子供達がどういう生き方をしているかということ。我々に聞かないでおいて、お母さんをそういう扱いをするのは最低だと思います。」
「初めて社会人になって、お母さんと向陽寮の有難さが分かってくるんですよ。寮長先生の三つの標語「泥棒するな」「親分的リーダーを作るな」、(「嘘をつくな」)。卒業して社会人になって初めて向陽寮という生活がわかってくるんですけどね。」
「人に対する思いやりとか、それはやはり餅田のお母さんが思いやりをもって育ててくれて、その気持ちは受け継いでいますね。」「僕は餅田のお母さんをお母さんだと思っています」。「お母さんをはじめ寮にいた職員の人は全部自分の家族だと思っている。」
 「勤めた運送屋で免許を取った。その時、新聞で合格者の名前を見つけたお母さんから電話がかかってきて「おめでとう」と言うわけですよ。そこまでお母さん気を付けとってくれた。うれしいですよね」。 ある日、長崎への運送を請け負った時、長崎に着いてすぐにお母さんのとこへ走って行き、「お母さん」と言ったら、「お前はもう来んと思ってた。何十年ぶりにお前はお母さんと言ってくれたか」。「僕は泣いた、お母さんも泣いた。お母さんは僕の手を取って見送ってくれた。お母さんの手の温もり忘れませんよ。」
                                     
 千代は晩年まで、児童福祉の仕事に力を尽くした。 
(千代の手記から)「あの頃の子供達は私をお母さんと呼び、その二世はおばあちゃんと呼びます。時々「お母さんお元気ですか」と電話をくれたり訪ねてきたりしますが、今も変わらず、親として扱ってくれるのです。」
 餅田千代 平成3年死去(享年82
今年同窓会を開いた寮生達、餅田家の墓参りをする。水をかけ、ひまわりの花を供える。
(ナレーション)
 過酷な戦後を送った焼け跡の孤児たち、太陽に向かうひまわりのように上を向いて生きてきました。
それぞれの人生を懸命に歩いてきた60年目の再会です。
 すべての人は皆、それぞれの環境に投げ込まれている。
子供達の過去の生活が虐げられ、冷たく泥沼的で心身ともに打ちのめされてしまっていても、その子供達の生き抜こうとする生命力はだれにも負けない強さと尊さががあります。
  ― 千代と寮生の集合写真 ―
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【感想】
 原爆投下後の長崎で、親も家も失った孤児を収容するために設立された孤児院。
当初から寮長を務め、“お母さん”と慕われた女性と寮の子供たちの生活と成長の記録であり、戦後早く父を亡くし混乱と貧困の中で少年期を過ごした私にとっては感慨深い番組だった。
 寮長・餅田千代さんの子供たちへの深い愛情と献身的な努力に強い感銘を受けた。
寮生達の思い出の中で随所に語られる“お母さん”への親しみと感謝の気持ち、強い絆、そして戦争孤児としての厳しい体験が語られており戦後の孤児たちの生活の状況がよく分かった。寮の自治会の活動紹介もよかった。千代さんの残した手記の読み解き、同窓会に参加した元寮生たちの証言が、よく記録・再現され感動的なレポートになっていたと思う。
                  
                  
                    
                                                                   

2021. 9. 2  諸川麻衣さん(東京)

◎8月22日(日) 放送  BS1スペシャル『感染症に斃れた日本軍兵士』(NHK-BS1

                                                
 二部構成で太平洋戦争における感染症の問題を取り上げた。

 

 前編『マラリア 知られざる日米の攻防』は、マラリア、デング熱など蚊が媒介する感染症に日米双方がどういう対処をしたかを描いた。マラリア対策では当初、特効薬キニーネの世界一の生産地だったオランダ領東インド(蘭印)を逸早く押さえた日本の方がアメリカよりも進んでいたという、意外な事実が紹介された。しかし、アメリカが代替薬を開発して前線に送り、兵站を断たれた日本軍が栄養失調に追い込まれるようになると、形勢は逆転したという。精神科の松沢病院で患者たちにデング熱の人体実験が行われていたという忌まわしい事実も明らかにされた。つれあいの父が戦時中蘭印にいて、戦後長くマラリアの発作で苦しんだと聞いていたので、個人的にもすこぶる興味深かった。


 後編『破傷風 ワクチン開発の闇』は、蘭印の都市バンドンで1944年、労務者400人近くが日本によるワクチン接種後に破傷風の症状で亡くなった大量死事件に迫った。番組は、破傷風ワクチンの効力を試そうとした日本がワクチン製造に失敗、責任を反日勢力に近いと目された医学者アフマッド・モホタルに押し付け、毒殺事件だとして処刑したのではないかと問う。戦時中の細菌・ウイルス感染や人体実験と言えばまず731部隊が思い浮かぶが、番組は南方軍給水部と731部隊の人脈も踏まえ、感染症・日本軍・人体実験という歴史の闇に新たな光を当てた。心ならずも事件に関わって戦犯とされた第二艦隊の法務官・立崎英の戦後の悔恨は、九大の米軍捕虜生体解剖事件を扱った8月20日のNHKのドラマ『しかたなかったと言うてはいかんのです』に通じるものだった。


 これまであまり取り上げられず、ほとんど一般に知られていないテーマへの挑戦、「こんなものが残っていたのか」と驚く資料の数々(よくぞ終戦時に焼却されなかった!)、90台~100歳の生存者の力強い証言、そして戦時中と現在との強く深い関わり…戦争はまだ終わらず「戦後」を秘かに動かしてきた、死者はまだ浮かばれていない、と強く感じさせる力作だった。取材者は果たして、「賞獲り女」の異名をとる金本麻理子さんだった。なるほどと納得。

                  

                  

                        

2021. 9. 1  諸川麻衣さん(東京)

◎8月14日(土) 放送  ETV特集『ひまわりの子どもたち~長崎・戦争孤児の記憶~』

                       
 原爆投下後の長崎でGHQの指示を受け設立された戦争孤児収容施設・向陽寮が舞台。

寮長の餅田千代は、盗みや乱暴に走らざるをえなかった孤児たちに寄り添い、自立のための教育に奔走する。

やがて孤児たちも千代を“お母さん”と慕うようになった。

高度経済成長期、就職して寮を出たものの、孤児への差別や偏見に直面する。

その時彼らが心のよりどころにしたのは、“お母さん”だった…。

かつての孤児たちへのインタビューから、孤児たちの抱えていた悩みと、餅田千代寮長のひたむきな教育姿勢を浮き彫りにした。

寮の運営を自治的・民主的にしようと努力した結果、力の弱い子でもきちんと自分の意見を言えたという回想が印象的だった。
 ここには大文字の「政治」や「戦争」は登場しない。しかし、市井の人々の70数年の歩みから、もし同じ立場に立たされたら自分はどう感じ、どう生きたのだろうかという普遍的な問題を考えさせられた。

孤児への「同じ日本人」の差別的な眼差しは、破滅的な戦争へとつながった近代日本の朝鮮・中国への蔑視と(あるいは今なお一部にある沖縄への蔑視と)、実は通底しているのではないだろうか?

                  

                    

                    

2021. 9. 1  K.F さん(大阪) 「クローズアップ現代+」のシリーズ・終わらない戦争①・②を視聴した。
                   
◎8月18日(水) 放送 NHK-GTV クローズアップ現代+
 シリーズ・終わらない戦争①「問われる空襲被害者の戦後補償」
                          
シリーズ①のテーマは、空襲によって民間人が受けた被害調査と、犠牲への補償問題。
 6歳の時、空襲によって片足を失ったという82歳の女性・・・
小学校の卒業写真に写る自らの足を黒く塗りつぶしている。
そして、50年間にわたって空襲被害者の補償や調査の活動を続けている。
『議員のみなさん100名近くに手紙を出した。私たちには時間がありません。』
この間、国会に補償のための法案が14回提出されたがすべて廃案に。
国の姿勢は・・・
戦争による一般の犠牲として国民が等しく『受忍』しなければならない
女性は言う・・・
『戦後76年も経って、まだ空襲被害者は見捨てられたまま。
私たちにはかまってくれず、虫けら同然にあつかわれてきた。
この国に生まれて良かったと思わせてほしい。』との訴えは痛切である。
                 
 日本政府は民間人の被害調査もせず、補償も避け続けてきた一方で、
障害を負った軍人・軍属などに対して、戦後60兆円に上る補償を行ってきた。
ドイツやイタリアでは軍人と民間人の区別なく補償されてきたという。
                           
 戦争に対する責任についての議論と反省をしてこなかった歴代政府
民間の「空襲を記録する会」任せでなく、政府の手による被害調査を行い、
早急に民間人へも補償すべきだ。
『この国に生まれて良かった』と思ってもらうためにも。                 
 
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◎8月19日(木) 放送 NHK-GTV クローズアップ現代+
 シリーズ・終わらない戦争②「封印された心の傷”戦争神経症”兵士の追跡調査」
                  
シリーズ②のテーマは、一人の精神科医が行った追跡調査資料による「戦争神経症」。
 「戦争神経症」とは、戦地のストレスなどによる精神疾患の総称。
番組冒頭でショッキングな記録映像《激しいけいれんや歩行困難などの症状》が流れる。
戦時中、軍は「皇軍に戦争への恐怖で発症する兵士はいない」と否定する一方で、
陸軍病院に収容し、研究を進めていた。
                  
 今回、調査資料を開示したのは精神科医・目黒克己さん。
昭和37年から40年にかけて、元兵士104人に対し密かに行われた追跡調査で、
「当時の病が治っていない」と答えたのは、104人中の25%にも及んだ。
上司から、この調査結果について『50年間、一切口外してはならない』と命令されていたという。
目黒医師は、「このままでは戦争による心の傷が兵士たちの人生を大きく変えた事実が埋もれてしまう」と、
開示の理由を語っている。
                      
 戦地で何を経験し、戦争神経症を発症したのか?
追跡調査・調書には、「出征した中国で討伐に参加した」、「人間はすべて撃ち殺していた」、
「自分はとうてい天国へはいけない」などの兵士たちの声が記されている。
「討伐」という名の無差別虐殺が兵士たちの心をむしばんでいったことは容易に想像できる。
               
 番組では数人の遺族(孫世代)を探しあててインタビューしている。
戦後20年たっても、アルコール依存やノイローゼなど、さまざまな症状に苦しんでいた多くの元兵士たちの
姿が語られていた。
 酒屋のお婆さんからこう言われたそうだ。
『戦争に行って見たくないもの、残酷なものをいっぱい見て、本当は頭がいい人なんだけど、
そういうのをいっぱい見て、ちょっとおかしくなってしまった、だから優しくしてあげなさい』
しかし、こういう目で見てくれる人は決して多くはなかったと思う。
 戦地での体験を喋ることも出来ず、家族や周囲の人たちに疎まれ、阻害され、孤独に生きたはず。
多いときには、1,100人を超えていた療養者の数は年々減少し、今年1月、島根県で療養を続けていた
最後の患者が亡くなった。
               
 番組は最後にこう結んだ。
~戦時中は恥とされ、戦後は復興の陰で忘れ去られた兵士たち。
それでも正しい事実を知って、直視し直すことが私たち戦後世代にできることではないでしょうか~
                                                      
 番組を見るまで「戦争神経症」という病名も知らなかった。
今も終わらない戦争を知ることができたシリーズ二回の放送だった。
                    
                    
                                                                                                                             
2021. 8.31  諸川麻衣さん(東京)
◎8月21日(土) 放送  ETV特集『戦火のホトトギス』
                     
 戦時中の俳句雑誌「ホトトギス」への戦地からの投句を取り上げ、俳句から戦争体験を描いた異色のドキュメンタリー。
個人的には、子規は江戸時代以来の俳諧文化にいわれのない非難を浴びせて俳諧連歌を破滅させ、俳諧を「写生」なる狭い美学に閉じ込めた点で、神仏分離・廃仏毀釈を進めた平田派神道家と同様の文化破壊者だと思う。
虚子に至っては、託された井月の句集を出版せずに私して剽窃する、久女、原石鼎など自らが世に出した逸材を途中からつぶしにかかるなど、俳人以前に人間として相当問題がある。
ゆえに、「ホトトギス」という番組タイトルから最初は視聴をためらった。
しかし、悲痛な戦争体験を17文字に込めて投稿してきた多くの将兵は、子規・虚子の罪業とは無縁だった。「銀漢も泣け わが部下の骨拾ふ」「敵の山味方の山と夕焼けぬ」「友の血の染めし落葉に伏せて射つ」など、番組で紹介された句の数々は切々と胸に迫る。
 番組はさらに、掲載された俳号や地名、「傷療」(傷痍軍人療養所)などの語句を手がかりに作者を突き止め、縁者に取材した。96歳で亡くなるまで戦争の話はほとんどしなかったという「陶子」の妻と娘、「動員の夜はしづかに牡丹雪」の句で巻頭を飾りながら戦死した「小いとゞ」の甥など、縁者の語る思い出が、戦争の時代と今とを結びつけた。
 他方この番組では、戦争の拡大に合わせて南方の風物を新しい季語として歳時記に取り入れるなど、虚子の商業的嗅覚も紹介した。
 おそらくこの企画は、誰かの先行研究に乗っかったものではなく、制作者の独自の着想だろう。膨大な数の投句を読み込み、縁者を探し出して取材したドキュメンタリー・ジャパンの制作者の努力には、称賛の言葉しかない。
 俳句と言えば、1940~43年の新興俳句運動への弾圧の際、当時NHK文芸部長だった小野賢一郎(俳号・蕪子)は弾圧側に立って俳人たちに圧力をかけたとされる(『月刊俳句界』2010年8月号所収、「小野蕪子と俳句弾圧事件」)。
俳句・戦争・NHKのこのような関わり合いも、いつかぜひ番組化してほしいものだ。
                
                  
                
2021. 8.30  今井 潤さん(東京)
◎8月18日(水) 放送 クローズアップ現代+「シリーズ終わらない戦争① 問われる空襲被害の戦後補償」
                             
 東京、大阪など空襲で民間人の犠牲者は800万人、全国戦災傷害者連絡会の活動は1972年にスタート、戦後初めて超党派の”救済法案”をまとめたが提出には至らなかった。
 大阪・堺の安野輝子さん(82歳)は左足を失った。
国に障害を求めて運動したが、国は雇用関係がなかったと応じなかった。「この国は命を大切にする国じゃない」
  国会では超党派で「救済法案」をまとめた。長妻昭(元厚労大臣)「あの戦争の総括ができないまま、補償はできない」
結局、救済法案は国会に提出されなかった。
  吉田裕(一橋大学名誉教授)「受任論が根深くある。戦争だから仕方がなかったという感じ。被害者は政府が責任を認めることを求めている」
 外国との比較では、ドイツもイタリアも、軍人と同じ補償を行っている。
朝鮮人犠牲者追悼式が戦後初めて開かれた。戦前200万人が日本にいた。
犠牲者の把握が自治体でも困難な時代になっている。
吉田裕さん「改めて、公的支援が必要な時代になってきた」
                        
クローズアップ現代+のシリーズ終わらない戦争②は8月19日(木)「封印された心の傷”戦争神経症”兵士の追跡調査」を放送しました。
この終わらない戦争シリーズは
 決して忘れてはいけない日本の原罪で1963年ノンフィクション劇場「忘れられた皇軍」で大島渚監督が「日本はこれでいいのか」と叫んだテレビ画面を思い出す番組でした。
我々年配者には貴重な内容でした。
                                      
                                    
                                     
2021. 8.29  渋沢理絵さん(東京)
◎8月28日(土) 放送  ETV特集 「玉砕」の島を生きて  ~テニアン島 日本人移民の記録~
                                         
 戦後、サトウキビ栽培のため多くの日本人が生活を築いていたテニアン島。
そこで生活していた日本人移民達の貴重な証言をもとに、極限の戦場を描いた番組だ。
 ディレクターが取材しようとすると、「思い出すことになる」「20年余り前の話。聞く方が野暮だ」とよくない反応だった。
しかし、ディレクターは諦めず、テニアン島で起きた事実と日本人移民たちから得た貴重な証言で番組をつくった。
                         
 東京・上野で日本人移民たちの会『南興会』にいらした高松藤子さんが重い口を開いて証言して下さった。
藤子さんのお母様も証言して下さった。
日本兵1人が《ガマ》に入ってきて、「捕虜になっては大恥だ。米兵にどんなことをされるかわからない。手りゅう弾を持っているからここで自決せよ」と言われた。
お母様は日本兵の言葉を信じた。しかし、弟の昇さんがお母様の手にしがみつき「死にたくない」と泣いた。
結局、お母様、藤子さん、昇さんの3人は投降した。この時の《ガマ》の様子は凄まじかったそうだ。
       
 他の男性の証言もあった。自分が死ぬ前にぼたもちを食べたいという申し出があり、みんなでぼたもちをつくった。
出来上がったぼたもちをみんなで食べ、食べ終わったらダイナマイトを首にくくりつけて爆発させていった。
証言された男性は、自分のしたことは殺人ではないかと戦後もずっと悔いている。
私が男性だったら間違いなく自分がしたことを悔いるだろうし、一生忘れることはないだろう。
              
 ガマを出て投降された藤子さんご一家は、ガマを出ていったきりわからなくなっていた兄妹たちと無事会えて、
子供5人とお母様は懸命に日本の地で生きた。
子供達を育てるため、懸命に働いた。どんな仕事でも一生懸命に働いた。子供達のためだから懸命に働けたのかもしれないが、
途中で投げ出さないで働くなんて当たり前かもしれないがガッツがある。がんばり抜く強さがあると私は思う。
                     
 悲惨なことがガマの中では起こる。
家族を手にかけた男性がいた。妹さんを手にかける時、妹さんが水を飲みたいと訴えたそうだ。死ぬ間際でも喉が乾いたのだろう。
戻ってきた妹さんを手にかけたのは兄であり、証言して下さった男性自身であった。             
 戦争とは酷い。藤子さんも幼い弟さんを手にかけたそうだ。
藤子さんがとどめをさした時、弟さんはかっと目を見開いて、藤子さんを直視したそうだ。
その時の弟さんの目が焼きついて離れないそうだ。忘れられないそうだ。当たり前だ。
まだ赤ちゃんの幼い弟を殺めたのは12歳の少女だ。こんなに辛いことを戦争は子供にさせたのだ。
こんなに辛い、悲しい思いをする戦争を繰り返してはいけない。
                  
 この番組を視聴して、親しい者同士で命を断った壮絶な体験談や生き残った家族が生涯抱え続けた苦悩を知った。
今の世の中は一見平和な社会に見えるが、実はそうでもない。
いろいろな問題がある。コロナ禍でもある。
私たちにできることは大量の情報をうのみにするのではなく、自分の頭できちんと考えていろいろな事を判断すべきだ。
政治家の意見に従うのではなく、騙されないように、自分の頭で諦めないで考えることが大事だとこの番組を視聴して思った。
              
                  
              

2021. 8.24 渋沢理絵さん(東京)
◎8月21日(土) 放送  NHK-BS1スペシャル「マッカーサーが来るまでに何があったのか?~市民が見た終戦の日々~」

                   

 番組の冒頭、『”終戦”と聞いてあなたは何をイメージしますか?』と問われる。私は玉音放送を思い出す。玉音放送を聞いているたくさんの国民達が泣いていたり、呆然としている、悔しがってる様子がイメージされる。この番組は戦前から戦後に移り行く、激動の時代に前向きに生きた様々な立場の人達の姿を描いている。マッカーサー来日までの空白の15日間を探った番組だ。新しい時代の到来を前向きにエネルギッシュに捉え、動いた人達が登場する。
 まず美容師の中村さん。中村さんはお客様からパーマをオーダーされて、敵国の髪型も取り入れる、自由な時代になったなと思い、おしゃれを楽しむ女性のパワー、前向きな気持ちを感じたそうだ。
 長谷川町子さんの漫画からも前向きパワーが感じられる。1コマ目では戦後に負けておーい、おーいと泣くのだが、2コマ目には奮起し、工作にはげむ漫画は、戦争からすぐに立ち直りがんばる姿は、落ち込んでいる人々へのエールになったのではないだろうか。
私は敗戦という辛い出来事をくすっと笑える展開にした長谷川町子さんは素晴らしいと思う。
 新しい音楽を日本に届けたマキノ雅弘さん。終戦後の日本にジャズを広めたマキノさんは自分が国賊と言われようとも、素晴らしいジャズを届けたいと、日本にジャズを広めた。たとえ敵国だった国の音楽だとしても、よい音楽であれば日本に広めたいという純粋な気持ちに共感した。
 「日米会話手帳」を出版した誠文堂の小川さんにも、私は新しい時代の到来を感じた。敵国だった米国の言葉を日本で使う日に備えて、学ぶための手帳を出版された。この手帳が将来の日本において必要だろうと先を読んでる方だなと思った。
 この番組においてピックアップされる美容師の中村さん、漫画家の長谷川町子さん、ジャズを広めたマキノ雅弘さん、出版社・誠文堂の小川さんに共通することは、激動の時代において落ち込んでばかりいないで前向きに頑張っていることである。
私が取り上げた方々以外の番組に登場する方々や、登場しない、メディアに扱われない一般の住民にも、混沌たる時代の中で新しい風を吹き込んだ方々、新しいことに挑戦した方々もいらっしゃるだろう。
その方々の努力のおかげで今の私達の生活が、今の日本が成り立っているのだ。
 今の日本が成り立っているのと同時に見過ごせない事実がある。
日本が戦争に負けて、東久邇内閣が「一億総懺悔」を唱えた。
『国民全員が悪かった』『国民よ懺悔せよ』と唱えた。
 私はなんで国民が懺悔しなくちゃならないんだと思う。
政府や軍部に煽られていた国民、日本が戦争に勝つために協力した国民が、戦争に負けたとたん、その責任を負わされるのは
おかしい。
一億総懺悔の名目で国民に戦争責任を押し付けるのは違うと思う。
責任をとるべきは、懺悔すべきは、戦争に国民を扇動し加担させた政府や軍部だろう。
 この番組は戦後の日本人の新しい挑戦を描いているだけではない。
 
     
     

  2021. 8.22 K.Oさん(和歌山)

8月13日(金)放送 NHK終戦ドラマ「しかたなかったと言うてはいかんのです」
 ※14分の未公開シーンを追加して9月4日(土)  22:30~23:59 BSプレミアムで再放送予定あり。
                                                               
 ドラマストーリーは、太平洋戦争末期に行われた「生体解剖」で医師が戦犯となり絞首刑判決となる。
命を救うはずの医師が・・。
 死刑判決を受けて自分自身と向き合う医師と、その判決に異議を唱え、公正な裁きを求めて奔走する妻。親子の絆には涙する。
このドラマはネット検索すると熊野以素さん著『九州大学生体解剖事件 70年目の真実』(2015年、岩波書店)が原作とある。
最後のスタッフ字幕からNHK名古屋局と大阪局の合同制作。
<視聴感想>
 ドラマ最後シーンがクライマックス。
減刑服役後は医師になり晩年経過後、取材記者から「上官命令にしたがっただけで、しかたなかったのでは・・・」
そこで、ドラマタイトル「しかたなかったと言うてはいかんのです」の顔UPサイズの締めセリフですね。
このセリフは今の時代、全てに通じる言葉だと実感!
 戦犯を描いたドラマではTBS『私は貝になりたい』を鮮明に覚えている。1958年オリジナル版の主演(故)フランキー堺さんが絞首台階段を上り「私は貝になりたい」とつぶやいたラストシーンは眼に浮かぶ。
                                   
                                       
                                                                                                                                                                                                                                                                                               
                                                                                                                                                            

2021. 8.21 服部邦彦さん(大阪)

816日(月)  NTV 0:551:25放送 NNNドキュメント」『メアリーが伝えるヒロシマ~アメリカ人ピースガイド~』

                            

(番組内容)

メアリー・ポピオさん(29才)は広島で活動するアメリカ人女性ガイドで、国や世代を超えて平和を訴えている。アメリカから移り住んで5年、メアリーさんの仕事はピースガイドで、平和公園などを訪れる外国人などを案内するNPO法人に所属している。コロナ禍で外国人観光客は激減し日本語でのガイドがほとんど。

メアリー(以下敬称略)はボストンで生まれ、敬虔なクリスチャンの家庭で育った。日本のアニメに親しみ、大学では東アジアの歴史文化を専攻した。祖父は「原爆が戦争を終わらせて、たくさんの命を救った。すごくいいことだ」と思っていた。

人生の転機は長崎を訪れたとき。74000人の命を奪った原爆の恐ろしさを目の当たりにし、初めて原爆資料館を訪れた時はすごく衝撃を受けた。罪悪感、原爆を落とした国の人間は憎まれているのではと思うようになった。祖国アメリカが落とした原爆。原爆が何をもたらしたのか、もっと知りたい。ヒロシマでは14万人が死亡した。

その後も広島や長崎を訪れ被爆者から話を聞いた。そして日本で平和活動をしたいと思うようになったが、そんなメアリーを支えたのは被爆者の伊藤さんだった。4才の時被爆し、兄と姉を失った伊藤さんは「原爆を落とした国アメリカに対し憤りの気持ちを消すことができないが、憎しみから石を投げたら相手も投げないけんようになる。これでは絶対に平和は来ない。ヒロシマの心を伝えて下さい」とメアリーを励ました。

「被爆者の魂、被爆者のストーリを伝えることが私の役割だ」と思い、メアリーは広島に移住しNPO法人ピース・カルチャー・ビレッジを設立し平和活動を行っている。

同じNPO法人で活動する被爆3世の住岡さんは「なんでアメリカはこんな地獄みたいなことをしたんだと正直思う。しかし原爆から76年たって、メアリーをはじめアメリカ人と一緒にこう言った活動が広島でできるということ自体が大きなメッセージだと思う」と話している。

今年5月、久しぶりに開催した講演会でメアリーは中学生に、国や立場を超えた平和への願いを伝えた。また、メアリーは、広島で6歳の時に被爆し多くの苦しみを体験した田中さん(82才)宅を訪ね、そこから、世界の人々に向けオンラインで被爆証言を届けてきた。コロナのため広島へ来られなかった茨城県の中学生に向けたオンラインによる平和学習を実施した際、田中さんは。「2回手を叩く間に広島という都市がなくなりました」「核兵器は地球上からなくしていかなきゃいけない、私はいつもこうしてささやかな運動をしています」などと話した。話を聞いた生徒は「平和は遠く大きいものではなく、色んな人たちが協力して行動すれば、いつかは届くものであることを学んだ」と語った。

メアリーは、「76年がたって今このように一緒に平和運動ができるのはすごく奇跡だと思います」と語る。「私が衝撃的だったのは原爆で亡くなった人は日本人だけでなく、いろんな国籍を持った人がいた。韓国人もいたし、アメリカの捕虜もいた。」

 今年2月、一時帰国したメアリー。日本で活動する彼女を家族はどう思っているか。

アメリカでは、原爆投下を肯定する声が根強く残っており、広島テレビが2017年に実施した全米調査では「正しかった」は47%、「間違い」は23%だった。

父(63才)は「メアリーのような人が世界にはもっと必要だよ、君の活動にはいつも驚かされている」。弟(26才)は「メアリーの日本での活動を見ていると変えることができるかもしれない。そう思うことがあるよ」。祖母(88才)は「メアリーが活動しているからたくさん学んでいる。人間は互いに近づきあえるし和解できるのだから」。

家族は広島でのメアリーの活動を温かく見守っている。

「原爆投下から76年、被爆者たちの声が直接聞けなくなっていく中で、メアリーたちのような若い世代がこれからの平和活動の鍵を握っています。」 (最後のコメント)

                   

(感想)

番組内容の紹介が少し長くなりましたが、すごくいい内容の秀作だと思いました。

アメリカの若い女性が、広島に移住して平和運動に参加し、仲間とNPO法人を立ち上げ核兵器廃絶の声を、日本と世界に向けて発信していることは素晴らしいことです。

同じ運動をする仲間からの励まし・協力、被爆者への思いと交流、故郷の家族たちの温かい理解の言葉などが、アメリカでの取材も含めて多角的・立体的に描かれていたと思いました。

 

 

 

2021. 8.21 竹中美根子さん(大阪)

8月14日(土) NHK総合  NHKスペシャル「銃後の女たち~戦争にのめり込んだ〝普通の人々〟~」

              

 戦時中、かっぽう着で近所を監視して回った「国防婦人会」について、資料や証言が次々と見つかっています。

 なぜ、女性たちが活動にのめり込んでいったのか、その心の内は今まで知られてきませんでした。母親が国防婦人会だった現在90歳を超える女性が語ってくれました。
 大阪の港町の主婦が見送りも無く出征していく兵士を不憫に思いお茶を振る舞うことを思いつきます。1932年、兵士達を応援しようと「大阪国防婦人会」を設立。「台所から街頭へ」をスローガンに女性達に参加を呼びかけ立ち上がりました。会は僅か2年で40人から54万人に増やしていきました。なぜ、国防婦人会は多くの女性達の心を惹きつけたのか。
 当時、女性の大半は20台前半に結婚、お姑さんには絶対に頭が上がらない、家事や育児をしながら夫の家でしか生きられない時代でした。そんな婦人達に変化をもたらしたのが国防婦人会からの勧誘でした。家の外で人の役に立ち活動できることに喜びを感じ活動にのめり込んでいきました。
 当時、女性に参政権が無く公の場で発言することもありませんでした。「生まれては親に従い、嫁しては夫に、老いては子に従い」が当たり前の時代でした。
物心両面で、銃後から戦争を讃えた国防婦人会が出来た当初、会は社会参加の場所になっていました。
 当時、女性の権利活動を訴えていた市川房枝は、「婦人は天性そうしたことを好まない。戦争は自分の可愛い子供を殺すのですから、反対なのは無理もありません」
会員を増やしていた国防婦人会の動きに注目をしていた組織がありました。発足してから2年後に婦人会の主婦達と陸軍幹部達とが並ぶ写真があります。
 今回「大日本国防婦人会の指導と監督について」という文書が見つかりました。書いたのは、当時陸軍省大佐・中井良太郎です。中井は、「第一次大戦に敗北したドイツを例に挙げて、銃後の女性の重要性を訴えています。敗戦は長引き、夫は傷ついて不具となり、愛し子が栄養不良となり倒れていく有様を見て、もう戦争を止めてもらいたい、という気分は婦人の間に流れました。我が国の婦人は大いに覚悟をしてドイツ婦人の二の舞を演じないようにすべきであります」
 軍は、国防婦人会に積極的に身を投じる婦人達に不満を抑える役割を期待しました。陸軍の強力な支援で大阪と東京に本部が設置され、その後、大日本帝国婦人会は全国各地に広がっていきました。長野県飯田市旧松尾村にあった松尾婦人会は、1936年に国防婦人会という名称に改められました。この村には、女子全員が参加する松尾婦人会がありました。元々、婦人会は農繁期など託児所や副収入を得るための講習会を開くなど忙しい時に女性たちが助け合う組織でした。国防婦人会に名前が変わると武軍長久祈願などの慰問袋作成など戦争に関わる仕事が増えてきました。看板が書き換えられることで、村の主婦1000人余りが自動的に国防婦人会の会員になってしまったのです。
 設立5年後、日中戦争が始まり動員する兵士が急増しました。会員数は日中戦争の長期化と共に1000万人に急増、1938年国力の全てをつぎ込む国家総動員法を制定。当初、女性たちの前向きな活動から始まりましたが、次第に息苦しいものに変わっていきます。「贅沢は敵だ」「欲しがりません、勝つまでは」という風潮があり本音を口にすることが出来ない空気が広がりました。
 1941年、太平洋戦争開始。「年齢14才以上、21才未満、割り当て40人。適格者は全部志願させるよう各方面ともご協力ください」地域で応募を国防婦人会も促す役割を担うことになり、10代の子供がいる家々を回りました。
 終戦間際、女性達自身も戦禍にさらされることになり、全国焼け野原になりました。1945年6月、大日本国防婦人会は解散、本土決戦に備えるように命じられました。
 「祖国の為、世界平和の為、なんて格好の良いことを言って命を捧げても、何の喜びも生まれない。終わってしまったら侘しいことだったという思いに変わります」
 「この子たちが大きくなるまで、どうぞ兵隊に取られる戦争が起りませんように、生涯戦争に行かんでいいような世の中になってほしい」
 熱狂の中で戦争の一翼を担い引き返すことの出来なかった銃後の女性達の姿を見て、あの時代と向き合い、どう生きていくのか、その問いは私達1人1人に投げかけられています。

 

 

 

2021. 8.19 増田康雄さん(放送を語る会)

◎8月14日(土)  NHK-BS1 22.00~22.49放送 ヒトラーに傾倒した男〜A級戦犯・大島浩の告白〜

                  
 番組の構成は戦前のドイツ特命全権大使・大島浩に戦後、明大名誉教授・国際政治学者 三宅正樹氏が音声記録した12時間に及ぶテープを構成したドキュメント作品。
構成は①第一章・ナチスに最も食い込んだ日本人、②日独伊三国同盟の黒幕、③封じられた真実、④A級戦犯としての4部構成からなる。
① は父の影響からドイツ語に堪能であったことからドイツを研究していたこと。1943年に陸軍武官としてドイツに赴任、独外相のリッペントロップに会い、1936年(昭和11年)11月25日、日独防共協定に調印する。1938年駐ドイツ特命全権大使になる。   ヒトラーは心許せる存在、能力ある人物とみなす。ソ連を敵としてスターリン暗殺に資金面から関与する。ナチス幹部から大島浩は気に入れられる。
② 1940年(昭和15年)9月27日、日独伊三国同盟に調印する。1939年(昭和14年)ドイツはソ連と「不可侵条約」を結ぶ。  大島浩は情報を日本外務省に知らせず、大使を降格させられる。一民間人になる。それでも大島浩は三国同盟の黒幕となる。
③ 大島浩は当時ドイツ優勢の情報を日本に送る。一方で日本の秋丸機関はドイツの戦争遂行能力を低下せざる負えないと報告する。大久保利隆・ハンガリー駐在公使は大島と対立する。降格させられる。大島は権力を保持していた。
④ 大島は東京裁判でA級戦犯として終身刑の判決が出る。しかし、1955年12月に釈放される。1975年6月6日89歳で死去する。 大島は自分の責任を痛感する側、日本の国論をミスリードしたと告白する。

 番組を視聴した感想は「大島浩」は日独伊三国同盟を提案した人物であり、ナチスのユダヤ人撲滅を意図した愚かな戦争を引き起こし、国民の命を奪い、ヨーロッパを第二次世界大戦の巻き込み、破壊と殺戮を引き起こしたナチスとヒトラーを礼賛した人物は許すことはできない。大島浩は当時の日本の国民をミスリードした外交から戦争を先導した人物の一人である。A級戦犯として極東軍事裁判で正当な実刑を受けるべきだったと思う。大島一人に責任を負わせることではないかもしれない。天皇をはじめとする戦争指導者が責任を果たすべきだったと思う。この肉声を聞いて、現在の日本の指導者も教訓とすべしと思う次第である。

 

 

              

2021. 8.17 諸川麻衣さん(東京)

◎8月15日(日) NHK総合  NHKスペシャル『開戦 太平洋戦争 ~日中米英 知られざる攻防~』
                    
 日中戦争勃発から太平洋戦争開戦までの国際政治の動きを、蒋介石の戦略という観点でたどった。蔣介石は日中戦争に欧米諸国を引き込んで「国際化」することで勝利しようと考え、巧みな外交や宣伝工作で米英の世論を味方につけていった。蒋は自国の利益を最優先する米英に翻弄されて何度も窮地に陥ったが、そのたびに日本の誤った判断と選択に救われてもいた。
 こうした中国の外交については既に多くの書物に書かれ、NHKも過去に番組で取り上げてきたので、ことさらに目新しい視点ではない。盧溝橋事件直後の第二次上海事変が中国側の主導で始まったというのも周知の事実である。蒋介石はドイツの最新兵器で強化した精鋭部隊を上海に配置し、日本との戦争に備えていたのである(ただし第二次上海事変のきっかけの一つとなった大山事件は日本海軍の謀略説もあるが)。今回の番組は、大東文化大学の鹿錫俊教授が筆写した蒋介石の日記を活用して細部を肉付けし、説得力豊かに伝えたのが取り柄と言えよう。太平洋戦争に至る国際政治の複雑な動きをこういう形で数年に一度は番組化しておくことには重要な意味がある。
 1941年11月26日のアメリカ側のいわゆる「ハル・ノート」が日本に対して厳しい要求を突き付け、最後通牒と受け取られたことは広く知られている。このノートが出された背後にイギリスや中国のどのような動きがあったのかは長年謎とされており、今回何か決定的な新資料(例えば、機密指定を解かれたチャーチルのローズヴェルト宛電報など)がスクープされるのかと期待したが、それはなかった。                                                        
                                                           
                                                  

2021. 8.17 諸川麻衣さん(東京)

◎8月14日(土) NHK総合  NHKスペシャル『銃後の女たち~戦争にのめり込んだ“普通の人々”』

                       
 最大一千万近い会員を擁して銃後で戦争を支えた女性組織「大日本国防婦人会」の実像に迫った番組。1932年に会が発足した頃は、家から自由に外に出て軍人や町内会長など男性を相手に対等に発言するなど、「女性の社会進出」の側面があった。しかし、戦争激化に伴い、国家への貢献を競い、相互監視の目を光らせるようになる。子を戦地に送り出した母は、子が死んでも涙を見せることができない。「社会の役に立ちたい」と考えた女性たちが自身を抑圧するようになっていった葛藤を通して、一般市民が戦争を内面化してゆく過程の怖さが描かれた。当初は国防婦人会に冷ややかだった婦人参政権運動の旗手・市川房枝が結局は戦争協力に転じていった事実も、押さえられていた。
 実際に会員として活動した女性たちは物故しているが、多くは90台となった子供たちへのインタビューで、母親がどのような思いでどう活動していたのかが明らかにされた。取材された女性の一人で、92歳の今も日々の新聞に目を通すという久保三也子さんは、はからずも「マルレ」の深沢元隊員と同じく、「私は私なりの考えをちゃんと心に持ってたいのよ」と語っていた。
 番組はジェンダーの問題意識で貫かれているばかりでなく、「本土と対等に」と会の活動に邁進した沖縄の女性教師のエピソードのように、異なる文化集団間の矛盾・軋轢にも目を向けていた。近年のこうした分野でのさまざまな研究と運動がなければ、このような視点は盛り込まれなかったのではないか。その意味できわめて今日的な内容になっていたと言える。

 

 

2021. 8.17 諸川麻衣さん(東京)

◎8月9日(月)放送  BS1スペシャル『マルレ ~“特攻艇”隊員たちの戦争~』
                  
 香川県小豆島に拠点を置いた陸軍の秘密部隊=通称「マルレ」を取り上げたドキュメンタリー。ベニヤ板製の小型艇に爆薬を積み、闇夜に乗じて敵艦を攻撃する部隊である。隊員の6割、約1800人が犠牲となったが、公式資料はほとんど残されていない。
 取材班は今回、元隊員の中溝二郎氏が個人でまとめた戦史や隊員たちの証言から、隊員がいつどこで戦死したのかを図化した。 戦地に着く前に輸送船が沈没。艇が故障して漂流し、捕虜に。陸上戦に追い込まれて戦友が餓死…。元隊員たちは自らの体験から、戦争の本質をしっかりと語った。特に深沢敬次郎さんの「人間は、生きている時に自分の意志で考えて行動しないと、人間の価値はない」という言葉は重かった。
 ことさらに「歴史を書き換える新発見の一級資料」などと声高に自画自賛せず、元隊員を一人一人訪ねて誠実に話を聞くことで世の中に知られていない事実を伝えるという、ドキュメンタリーの王道を行く制作手法で好感が持てた。
 近年の傾向として、NHKスペシャルよりもBS1スペシャルの方にドキュメンタリーとしての力作が多いような気がする。 731部隊を扱った番組のように、同じ題材をNHKスペシャルでまず放送しながら、より充実した形でBS1スペシャルに仕上げた例もある。ひょっとしてNHK内部で、NHKスペシャルはかつてほど魅力的な発信の場になっていないのではあるまいか?   だとすればその理由は何だろう?

 

 

2021. 8.16 吉田 晃さん(大阪)
8月15日放送  NHKスペシャル「開戦 太平洋戦争~日中米英 知られざる攻防」(1時間)
                                                                
 このほど中国国民党総裁-蒋介石の日記が見つかり、その中に苦渋の選択を迫られながら、日中戦争に米英を引きずり込む巧みな戦略を立てていたことが明らかになった。同時に日本が幾度となく、太平洋戦争への突入を回避できた機会があったことも紹介され注目すべき番組だった。
 満州事変後、勢力拡大を狙う日本に蒋介石は徹底抗戦を宣言。盧溝橋や上海事変-日中戦争から太平洋戦争に至るまで、日中双方とも途中、和平への検討を模索していたいくつかの事例を中国の研究家などの証言を交えながら克明に紹介していた。日本は満州国建国を機に国際連盟から脱退していて、世界からの更なる孤立を避けるため、ドイツを仲介とする和平交渉に乗り出す。抗日政策の放棄や上海地方を非武装地帯にすることなど中国も妥協可能な和平条件を水面下で伝達していた。しかし和平交渉を巡る状況が一変する。日本の派遣軍が首都南京を一気に攻略し、和平条件をつり上げるよう強硬に主張、日中戦争の早期収拾を目指していた日本、その最初の機会を自ら失ってしまった。その後も国際間でいくつもの紆余曲折があったが、蒋介石は戦いを国際化し米英の介入を引き出すことを戦略の根幹にしていた。
 当初アメリカは他国の争いに介入しない方針で日本がインドネシアから撤退することと引き換えに日本へ物資の提供をする暫定協定案を各国に示していた。事態を決定づけたのは、ドイツとの激戦に苦しむイギリスが蒋介石の働きかけでアメリカ参戦を誘導、日本に妥協的な暫定協定案をアメリカが破棄、日本の中国からの全軍の撤退の拒否――太平洋戦争へ突入することになった。
 戦争の歴史を扱う番組はこれまで幾度も視聴してきたが、70数年を経過した今も新たに貴重な資料や証言を追い求める番組制作者の熱意に感謝したい。
                            
 
 

 

 

2021. 8.15 渋沢理絵さん(東京)
◎8月14日(土)放送  NHKスペシャル「統後の女性たち~戦争にのめり込んだ“普通の人々”」(50分)
                
 番組は国防婦人会という組織がどのようにして巨大化したのか、なぜ戦争にのめり込んでいったのかを追っている。国防婦人会が発足した当初は、兵隊さんを応援し、残された者は日本でお国のために頑張る前向きな活動であったが、次第に息苦しい活動へと変わっていった。それは主婦だけでなく軍人も活動に加わり、国の活動になり、国の国防婦人会という色が濃くなったからではないだろうか。
 番組の中で登場された吉田いとさんの娘さんの話を聞いて悲しくなった。『息子がいて一人前なんだからえらそうに言うな』(吉田いとさんの家は娘さんが3人いらっしゃる)と言われたそうだ。娘さんも辛かったと仰っていたが、同感だ。男でも女でも同じで、子供はみんなかわいいでしょう、言われた娘さんは辛かったろうなと想像したら泣けてきた。吉田さんの娘さんは「心の戦争だ」と仰っていた。その通りだ。言ってしまった人も戦争で余裕がなくて言ってしまったのか。戦争は皆を追い詰める。戦争でなくても、心がいっぱいいっぱいになり余裕がなくなると周りにあたってしまう。
 村田さんの息子さん2人が戦地に行って戻ってこなかった話もあった。あまり悲しい素振りをされなかったと娘さんは仰っていたが、孫を見て「この子が大きくなる頃は平和な世の中であってほしい」とつぶやいたそうだ。これからである若い青年が命を落とすかもしれない戦争へ行くのはおかしい。残された家族は悲しむ。
 沖縄県の婦人会の梅子さんは戦後、国防婦人会を辞めたそうだ。戦前、国防婦人会で戦争を推奨する国の政策をたたえ、軍国主義を訴えていたのに日本が戦争に負けて全く真逆のことを教師として生徒に伝えることはできないと考えたからだ。梅子さんは戦前教職に就いていた。自分が軍国主義を声高に言ってきたことが恥ずかしいと思い、もう教壇には立てないと思った。国防婦人会を辞めた理由は他にもあるが、このことも理由の一つだそうだ。
 番組最後の大阪の久保さんの話に勇気づけられた。上から言われたことに簡単にそうですかと従わないと久保さんは仰る。新聞やあらゆるメディアをチェックし、その知識で、もし上からなにか言われても「No」という、間違っていると自分が思ったら違うと言う勇気が必要である。上からの命令をわかりましたと飲み込むのではなく、疑い、自分の意見を持つ。そのことは今の世の中にも通じることだと思った。
 この番組を視聴して学ぶことは多いが、はっきりしているのは一口に戦争に翻弄された女たちといっても、一人一人翻弄された理由や背景は異なる。それを知りもしないで一概にまとめておそらく・・・だろうと結論付けるのは危険だ。この番組を見て、戦争が進むにつれ、国防婦人会の当初の目的は揺らぎ活動は形を変え、一生懸命お国のために協力してきて、終わったら一体今までの協力はなんだったのだろう?と虚しくなるのだ。いつだって大変なのは普通に暮らしている庶民で、上の決定権のある人達はたいして大変じゃないのではないか。踊らされてるのは私たち、庶民ではないか。いいように上の人達に利用されているのではないかと疑ってしまう
 長くなってしまったが、いろいろなことを考えさせられた番組でした。                            
                                                            
                                                           
                                                          
2021. 8.15 今井 潤さん(東京)
◎8月13日(金)放送  NHK終戦ドラマ「しかたなかったと言うてはいかんのです」(75分)
                 
心に深く残るセリフの数々
昭和20年(1945年)九州大学で起きた米軍捕虜の生体解剖事件をベースにしたドラマ。
捕虜の実験手術に関わった医学部助教授鳥居太一(妻夫木聡)は教授に中止を進言したが、手術は続行され、終戦後戦犯とされ、
軍事法廷で絞首刑を言い渡される。
妻〈蒼井優)の再審請求のおかげで懲役刑の減刑されたが、昭和29年まで巣鴨刑務所で過ごすことになった。
面会の妻に
「後ろから頭をぶん殴られた感じで、私は首謀者じゃなか」
再審請求に通う妻は
「夫は手術のことは知らなかったんです。間違った判決を正したかったんです。裁判であやまった証言があったことを証明して
見せます」
鳥居の房に来た岡崎中将は鳥居に
「何もしなかった罪というのもあるのではないですか」、深く考える鳥居
裁判が終わり、医院を開業した鳥居に女性記者が取材に来て、
当時は敵性外国人の人体実験は許容されるという恐るべき認識があったのではないですか」
「あの時、殺されても手術はやめるべきだとずっと思っています」
記者「戦争だったから、しかたがなかったという側面もあったでしょ」
「それだけは言うてはいけんのです。しかたがないはなかとです。
決してしかたなかったと言ってはいかんのです」
このセリフがラストとなります。

このドラマは巣鴨プリズンの房内の映像が多く、押し殺したセリフに作者の思いが込められていることに、私は感動しました。